am i credible

昨日は居酒屋なぐもんに行ってきた。夕方前、カーリルやJcrossの企画会議? が行われる一方、ぼくは部屋の奥で幼児と一心不乱にレゴを楽しむという、良い会だった。
そんななか、たしか学校図書館の話で、「先生がおすすめする本は一気に借りていかれるので、[普段からおすすめをしてもあまり本が動かない]司書としてはちょっとさみしいらしい」みたいなことが言われていて、まぁそうだよなとか、単に言われたことをやっとけばいいと思ってるだけじゃないの? とか、その場では思っただけだったんだけど(発言せず)、帰りの電車で、ジャニーズのコンサート帰りの女子たちに包囲されながら『情報の呼吸法』を読んでいたら、これってあれと似てるなあ、と思い出した。

ツイッターの場合に限ったことではありませんが、何がデマで何がそうでないか、情報の信憑性には注意が必要です。そこで僕が推奨するのは、発信している「人」を見ることです。
津田大介『情報の呼吸法』 パブー版 161/525)

で、こういう話って前にも聞いたなあと思っていたけど、これだった。

…インターネットが社会に普及しはじめたころ、「…情報の真贋をみきわめるのが、重要なメディアリテラシーになる」と…さかんに言われました。…しかし…十五年が経ってふと気づいてみると、とうていそんな…能力なんて身についていない。
(…)
つまり「真実の真贋をみきわめること」は難しいけれども、それにくらべれば「人の信頼度をみきわめること」の方ははるかに容易であるということなのです。
佐々木俊尚『キュレーションの時代』 パブー版 446〜451/709)

だから、信頼できる人の勧めた情報を積極的に摂取していくというのは、無意識でもかなり理にかなった情報探索行動ということになるのかなぁ、なんて考えた。

んで、司書としては、そこまで信頼されてなくてかなしい、というのはあるにせよ、利用者が情報にたどり着けるのであれば別に初めから自分自身がレコメンダーとして信頼されている必要はない。そうでなくても情報のハブとして機能することはできると思う(ちゃんと機能してれば信頼されるような気もするし)。

もともと図書館は、情報を平等に扱うことへの配慮から、情報の信憑性の判断、特にこういった個々人に対する評価というのは苦手にしてきたんじゃないのかなと。
でも既にそのような情報ニーズが明確化しつつある以上、まぁ自分で人物に対する判断を下さなくても、少なくとも判断の材料となる資料や方法をまとめて提供する必要が出てきているように思った(というか、ほしい)。


居酒屋なぐもんではその後、グリーンカレーとかジンギスカンとか焼きそばとかスペシャルなフルーツケーキとか栗きんとんとか畳いわしとかを食べながら、シャンパンとか梅酒とかワインとか地ビールとかを飲み、何の話をしたのかよく覚えていないという、良い会だった。

情報の呼吸法 (アイデアインク)

情報の呼吸法 (アイデアインク)