OUT OF PLACE

エドワード・サイードの自伝を読んでいる。
いまようやく100ページを越えたくらいで、両親のエピソードと学校生活を中心に振り返っているところ。

遠い場所の記憶 自伝

遠い場所の記憶 自伝

この本は大学のころに見つけて図書館で借りたのだけど全く読み終わらず、でも何か自分にとって重要なものを感じて、「いつか買って読もう」と思っているままに10年近くが経ってしまったのだが、ようやく最近Amazonマーケットプレイスから中古でそこそこ安く手に入れたのだった。なにせ定価が4300円(税抜)なので…


イードは『オリエンタリズム』で有名な人だけど、ぼくはその本は冒頭の80ページくらいしか読んでなくて、論に惹かれたというわけではなかった。ただ、自伝の冒頭にあるような、自分のあり方というものに対する恒常的な違和感に深く共感したのだった。

しかしつねに何よりも先にきたのは、然るべきありようから自分がいつも外れているという感覚だった。サイードという紛れもないアラブ系のファミリーネームに無理やり継ぎ合わされた「エドワード」という馬鹿げてイギリス風の名前。わたしがこれに順応する-いや、より正確には、さほど不快を感じなくなるまでには、五十年ほどの歳月が必要だった。
(…)
このような名前を持つことによる心労を倍加させたのが、言語についての同じように解決のない板ばさみの状態であった。自分がどの言語を最初に話したのか、アラビア語と英語のどちらが疑う余地のない自分の言語なのか、わたしには決してわからない。
(1〜2ページ)

さらにサイードの国籍がイギリスでもアラブ諸国でもなくアメリカであることが混乱に拍車をかける様子も記述されている。


ただ、振り返って考えてみるまでもなく、自分の名前は(気に入らない面はあるにせよ)明らかに日本人だし、母語は日本語、国籍も単純に日本。状況がサイードと似通っているとは到底言えないのである。
それにもかかわらず、どこへ行っても自分は「よそ者」であるという違和感がつきまとってくるこの点にのみ共通項が存在する。
これがどういうことなのか、自分にもはっきりとしていない。
イードの自伝を読みながらその違和感の尻尾をつかむことができるのか、その期待を持って読み進めているという面は大きい。