ヒューマニティ・オブ・ライブラリ(2009/4/5転載)

最近よくまたCDを買うようになって、そうしたら手元の音楽が日常をきざむので、日々の記憶が立体的に、はっきり実感できるものとして残っている気がする。



去年などあまり買わずにツタヤでレンタルする方が多かったけど、PCに取り込んだそういう音楽たちを思い出すことってほとんどなくて、それはそのころのことをあまり思い出せないこととおおむねリンクしている。



なぜ思い出せないかというと、レンタルは返してしまってモノがないから、記憶を喚起するきっかけが身近にないのです。



もちろん映画なんかは持ち帰るものではないけれど、強く印象付けられるのはやっぱり映像の、つまり視覚的な効果なのかなって思う。音声だけだと、よっぽどそれが強烈でない限り、あるいは音楽とともにあった景色としての日常がよほど大事なものでない限り、そうそう頭に残るものじゃない。



レコードを手元に持つことで、日常の記憶が比較的はっきりと実感できるようになるのだとすれば、それが「自分をつくる」ことにほかならないわけで、つまりそのへんが「買う」と「借りる」の違いの最たるところになるんじゃないかって思う。



そうしたらだよ?



図書館がただ貸してばっかりで、記憶のはしにも残らない、「自分をつくる」ことになにも寄与していない、のだとしたら、そりゃあつまんないなって。



情報の集積を重ねるなかで、なにかとんでもなく大きなものを組み立てるという、広い意味での科学の一端を担っているのはわかっている(つもりだ)けれど、その一方で、自分にとっての「この一冊!」とか、「これは自分でしかありえない」という本を探し出すという、いわば人文学的な、個の側面でいったいどの程度、その人の生活に貢献できるのかと考えると、疑問。

できないのかもしれない、もちろん限界はあるから。



ただたとえば、貸して、延滞してるから早く返してよだけじゃなくて、「そんなに気に入ったならこういうふうに手に入りますよ」とか、入手の窓口になるとかそういうのだってありだと思うし、というかせめてそのくらいはできないと、せっかく招き入れた意味がないんじゃないか。



玄関先で追い返すような真似をされたら誰だって良い思いはしないだろう。



情報や知識だけじゃなくて、記憶としてモノとして手元に残せるということに少しでも注意を傾けなければ、「社会全体に貢献している」という抽象的な価値にとどまって、個人個人の具体的な生にはお互いにそっぽ向いてしまうような危惧。



そういうのは、大いにつまんないことだと思う。